昭和47年7月10日 月次祭



お道の、おー、信心を頂かせてもらって、えー、せっかくお道の信心を稽古させて頂くなら、うーん、ここの金光様の御信心の、おー、一番素晴らしい所だと言ったような所を身に付けていかなければ、あー、大した事はありません。ですから、どういう所が例えば、であるか、信心の有る者と無い物の違い、または信心の薄い者とお道の信心のほんとの所を踏んまえての信心をさせて頂いて居る者の違いと言うようなものがね。

例えば、例えばこのような、えー、大雨の中に、えー、皆さん御参拝になっておる、朝の御祈念にも、またお昼のいうなら、夏の修業期間ですからやはり皆さんお参りになっておる。また、今日は、あー、月次祭、(   ?   )だけではありますまいけれどもやはり朝昼晩とお参りをされておる方があろうと思うんです。

あたくしはいつも、あの、おー、お祭り、いー、の方をさせて頂いておる間に頂きます事が、えー、役員さん方はそう(  いっさい?)先生方もまあ(いっさい?)こちらの方はもうガラッとこういう、このガラッとと言うとこのが皆がです、皆この(教衣?)を着けておられる所を頂いた。皆さんもねいっぺんこれ着てみてください。(すると間違える?)お話もようでける。

これはあのー、家では(お装束?)の時よく使いますけれども、普通はあの、お説教の時に付ける服なんです、(教衣?)。それを皆さん、みーんな今日は着けておられる。今日はもう言うならば玄人ばかりだな、言うならば先生級の人達ばかりが集まっておるなと言う感じでございます。ま、合楽ではですけどね。

ね、言うなら金光様の御信心を教えて頂いて言うなら先生と言うか、ね、言うなら(教衣?)を着せて頂くという事はどういう事かと言うと、人にお取次をさせて頂くと言う事なんです、ね。今何をお取次させて頂くかと言うと、やはり、ね、信心による人間の真の幸せ、それを自分が受けて、そしてそれを人に伝えていくという事だと思うんです。

ね、ですからそこん所を皆さんがね、言わばお取次が出来なければいけない。金光様の御信心を頂いて、言うなら私は合楽に御神縁を頂いておられる皆さん。しかも今日の月次祭に願いを持っておられる、うー、祭員、楽員、そして参拝者の皆さん方。全部この(教衣?)を着けておられるような様子を見せて頂いて、ね、今日のような例えば荒の日に、「もう今日はこげな雨の降る日だから、今日は御無礼して明日お天気になったら明日でもお参りしよう」と言うても良いわけです、ね。

けれどもその危ないをおかしてそれこそこれは普通で言うならどういうで事でしょうか。このお湿りの中に、足元の悪い所をようこそ皆さんここに今日はお参り頂いて有り難うございましたと言うとこでしょう、ね。金光様の御信心はそれが反対であると言う所が違うんです。これ、ね、反対にこの皆さんの方が「親先生今日はこのお湿りの中に、ね、おかげで参拝のおかげを頂きまして有り難うございました」と言うのです。

あたくしはお道の信心の違いはここだと思う、ね。普通で言うならばですよ、このお湿りの中にしかもこの(やちよ? )に、ね、しかもこの蒸し暑い蒸し風呂のような中で、ね。「ようこそこの足元の悪い所に御参拝を頂いて有り難うございました」と言う所でございましょうけれども、金光様の御信心の中では反対、ね。

あのようなおかし、道の悪い所をもうそれこそ雨合羽を着て長靴を履いて、ごしごしとはまって、ね、お参りをしたと言う方もございましょう。ほんとにおかげを頂いてこのお湿りの中を雨をついてお参りがでけたと言う事がひとしお有り難い、一段と有り難い。お引き寄せを頂いて有り難うございましたと言うのが金光様の御信心の違い。

だからここの違い、ここの所がです、皆さんが体得すると言う事なんです、ね。神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならん。その(辛抱?)こそ身に徳を受ける修行じゃと言う事を日頃頂いておる。大地のその有り難さが分かってくりゃあ、降るから照るからぐらいの事で、しかも月次祭を御無礼するなどと言う事はもう出来ないほどしにまずはその信心が言わば高められておる。

言うなら、高められておると言う事はどういう所に高められておるかと言うとです、ね。このお湿りの中に、お湿りをついて、ね、お参りがでけたと言う事が有り難いと神様にお礼を申し上げると言う事が、である。それが申し上げられるようになると言う事なんです信心とは、ね。

だからあの、おー、御理解ですね、上から下へ水を流すのは見やすいけれども、ね、下から上へ水を流すような、もう凡人から道を開くのであるからなかなか暇がいる、容易ではない。けれどもその信用こそが、信心辛抱の徳を身に受けるのだと言う御理解、ね。そこであたくしどもがね、そう言う信心辛抱の徳と言うものを、身に本気で頂き受ける事を楽しみに信心さしてもらわにゃいかん、ね。

そこから初めてです、ね、お湿りの中にお引き寄せを頂いたと言う事が有り難いと言う事になるのです、ね。言うならば、反対、ね。これはなんかの会合かなんかであった事ならば諸先生が言うでしょう。「今日のこの、おー、お湿りの中に、ね、足元の悪い所にようこそ皆さん集まってくれて有り難うございました」、ね、それが普通です。

ところが、金光様の御信心はそうではない、このお湿りの中に雨を突いて風邪を突いて、お参りをさせて頂いたと言う事が有り難い。そこでなんです、あたくしどもの日常生活の中にある所のです、ね、物の見方考え方というものがそう言うような考え方がでけるようになると言う事。人が腹を立てておると言う、こちらは有り難いと言えれるわけです、だから、ね。

ふっともうそれこそまあー、言うならえげつない事を言われた、ね、けれどもね、本当の事が分かるんです、ようこそこの人なればこそ、いや、神様がこの事を通してあのようなえげつない事を言われる、もうほんとに(その神様が      ?)のように見えるであろうけれども、信心をさして頂くとそれが神の姿に見える、神の声に聞こえる、ね。雨の降る日にお参りさして頂いて有り難かったようにです、ね。そう言う腹の立つような事を持って、私を鍛えて下さると言う事が有り難いと言う事。あたくし金光様の御信心の違いはそこだと思うんですよ。

ですから、今日はあの、神様に今申しました、ね、お湿りの事です。お湿りを突いてお参りがでけた事が有り難いのだと。こう言う例えば(   ?   )のような難儀の中にです、ね、その事にお礼を申し上げれるほどしのおかげを頂けておると言う事が有り難いです。ね、それが信心。それが分らして頂けて初めて人に取次ぎがでけると言う事ではなかろうか、ね。

もう先生(  ? )こそ難儀な問題がこことここにも、ね、信心の生活で、ね。あたしから言うと、お礼を申しあげねばならないような事に腹が立ったり、お礼申しあげねばならないような事に悲しい涙を流したりと、ね。だからいよいよ信心の稽古と言うのがです、いよいよその時に、いよいよ吹く時に、とても人ならばお参りがとてもせんだろう、出来ないだろうと言うような時にです、いよいよ信心の稽古をさせて頂くと言う事が、身に徳を受ける修行じゃ。

それを普通の信心が無いなら腹立てなおられないと言う時、ね。その事を持って信心の稽古をさせて頂くと言う姿勢を作る。そう言う姿勢がでける、ね。そう言うおかげを繰り返していく内に、信心辛抱の徳が受けられるのであり、その辛抱こそが身に徳を受ける修行じゃと言う事になるんです。

今朝からの、おー、今朝からと(  ?  )、あたくしがそれは今朝からと言う言葉を使いましたけれども、実は今体が悪くて昼休んでおりました。それでうとうとーっとした時に、えー、ちょうど、おー、すぐその、あの、(修行?)の時間に1時ぐらいちょっと前に起きて参ります時ですから、あー、12時半頃だったでしょう、お夢を頂いた。その夢を今朝から(  ?  )で頂いた。

今日は(  ?  )神戸から(  ?  )の教会の(田中?)先生が、えー、今月から50日間、ここで御修行のおかげを頂きたいと言う願いがちょうど参って来たばっかりの所であった。それであたくしはね、その方に、(田中さん?)にあたしはお話しをしたんです、あたくしお夢の中でこんなお夢を頂いたんだと。あたくしがお夢の中にある人がね、油を買いに行って、油を。

(      ?      )引いててからがばっと持った(がないです?)ガボッと(言うたら?)すぽっと底が抜けてしもうた。だからもうあたり一面もう油いっぱいなんです、ね。ほいでそこの主人が「これすぐまたここであの、いよいよ油がやられて(    )また何枚かくれるじゃろう」と言うようなお夢です、ね。だからその話を私は田中先生に今日さしてもらった。(今日からの田中先生の修行を    ?   )

「あたしが頂いたお夢なんだよこれは。あんたがいうなら当てつけで言いよるじゃないよ、今頂いたばっかりのお夢なんだよ」と(言う様な?)お夢を頂いた。例えば教会修行をする。それは決して楽な事ばっかりじゃあない、間違っとる先生を怒るを( ? )、(   ?      )と言うて先生が、ああ言うたからと言うて、腹を立てて例えば帰るとするか、そうすっと今度はあんたはあれだけ言ったばってん大した事じゃ無かったと言うて、先生の悪口、教会の悪口まで言わんなんごとなるぞ。

してみると、せっかくここに来てもろうて教会の(御神前?)にも傷がつきゃあ、あんた自身もそう言う事では絶対おかげを受けられない。受け物。姿勢がでけてないんです。(受ける     ?     )、ね。しかもお店の方ではこれまた(        するごた裏が出たけん、まためいめいが?)転ぶじゃろうと連鎖反応を起こすのです、ね。一人がおかげを落としたらね、連鎖反応を起こす、そこで転ぶ人がでけて来る、ね。

天地の親神様がね、例えばお金を落としたからと言うて御無礼になったからと言うて腹を立てなさったり、困りなさる神様では決してないけれども、(   ?   )が困る(    ?    )も困るのです。ね、これを教会で言うならば(万一   ?  )あんたがこの修行と50日間( ? )本気でどのような事があっても言うならば50日間だけは本気でやり遂げさせて頂くぞと言う腹精神を持って修行さしてもらわなければ。

思うだけではなかった、きつかった、ああ言われたからと言うて中原に帰ったら言うならばむしろ合楽の御広前に傷が付く事になる、ね。これはあたくしも今、お知らせを頂いたばかりだから、と言うてあたしは簡単にその事を( ? )に話させて頂いてから、今日の、おー、次の御理解、ね。あれは御道の教師に対する確か御理解だと思います、と側に書いております事でございます、ね。

どの御理解にしろ開くのであるから、容易な事ではない、それこそ下から上に水を流すほどに難しい事なんだけれども、ね、難しい事があるけれどもそれを辛抱していくうちに、信心辛抱の徳が受けられると、神のおかげで頂かしてもらうのだと分かる。自分で磨こうと思うな、途中ではもうほんとにもう(  ?  )たまらんと言うような時もあるけれども、それを辛抱していくうちに徳を、神様を通して徳を頂かなければ(  ?  )、ね。

その徳を下さりたいばっかりなんです、そこから神のおかげで開かせてもらえると言う事になってくる、ね。ですからあたくしは今日は昼は、その今日の御理解の信心辛抱だけをしなければいけないよ、と言う御理解なんですけれども、ね、それを一つ内の所を聞いて下さったわけです。今の例え。

なぜ辛抱しなければならないかと言う事を聞いて頂いた。ね、なぜそういう本気で作っておかな、おかねばならないか、いや、受け物を作っておかなければならないかと言う事。信心する、おかげの受け物を作れと言う事を言われるけれども、今日のような意味合いにおいては初めてだったですね、皆さんもそうでしょう。

ただおかげの受け物だけではなくて、受け物が悪かったら自分がおかげを頂き切らんと言うだけはなくて、(   ?   )時間が困るんだと言う事。そうでしょう?しかも、今度は油絵を書く時、この油でベトベトになったままじゃまた誰かの内部の所を(  ? )と言う事にまでなってくる、ね。

自分のおかげを受けられないと言うだけではなくて、油やに(  ?  )、ね。お広前の御比礼に関わるような事になるのですから、それにおかげを頂けるはずは無いと言う事なんです。ですから本気で、ね、例えば極める物を極めた(  ?  )頂くまではです、ね、いわゆる信心辛抱が肝心である。

そしてもう事々にです、信心の有る者と無い者の物の見方考え方という物がです、ね、これはなるほど信心する者は肉眼をおいて心願を開けと仰せられますから、心の目を持って開ける、言えば一つ問題無い、皆がこれは難儀難儀といよるけれども心願を開いた人に言うたらもう有り難く応える。

これで神様はお徳下さるんだからと分かるんです、心の問題は、ね。で、心の目が開けるまではです、だからとにかく人が腹立てるときに反対に喜どらんならんのだと。普通で言うならばこのお湿りの中に、と、こちら側が言わねばならんのだけれども、金光様の御信心はお参りをしてくる皆さんに、このお湿りの中に御引き寄せを頂いて有り難いとお礼の言えれる稽古をしなければならないと言う事。

皆さん言うておりましょう、今日のお湿りの中に御引き寄せを頂いて有り難うございます、だからそれをです、日常生活の上にも現すと言う事なんです、信心を、ね。そこがなるほどそうだと分らして頂く事になったら、そこに御取次がでけるまでずーっと、(  ?  )反対の事が( ?  )なって、素晴らしい言うならば事柄を自分が体得した時から、言うなら(  ?  )が困っておられる時、困る事無いですよと、それがおかげ、それがあなたの幸せのきっかけになるのかもしれませんよ、御信心なさいませと言う事が言えれるわけなんです、ね。

そう言う信心をです、あたくしどもは身に付けて行ってこそ初めて、金光様の御信心に合楽に御神縁を頂いて信心の稽古をさせて頂いておる者、と言えるのではなかろうか、ね。ここん所皆さん苦手でしょ?お湿りの中にこの雨風の中に御引き寄せ頂きました、ね。それこそそこには神様のです、ね、雨の日に(    ?    )なおかわいいと言ったような働きが必ず感じられるです、ね。

この腹の立つような問題をです、ね、もう当然腹を立てるのが当たり前という所を腹を立てず、有り難うございましたとお礼を言やあ、それこそ(  ?  )だけがなおかわいいと言う意味がそこに立つわけです。しかもそれでね、金光様の御信心を( ? )言うなら合楽で信心の稽古をさせて頂くと言う違いと言うのをそこに無からなければならんのに、あの人が腹を立てた(  )腹が立てる。いや、信心のなかもんが腹立てんごたることに、腹を立てておると言ったような事は無かろうか。

これは腹立ちだけ、人間関係だけの事じゃありません。もう一切の事、天候の事から経済、ね、人間の言うなら難儀となる、例えば苦しいと言う時にです、その苦しい事が返って有り難いとお礼を言えれる信心をね、いよいよ体得して行って頂きたいと思うのでございます。どうぞ。



明渡徳子
2005年7月15日